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自分の作品や人生の目的がある人に憧れる

こんにちは、にわです。

今日も最近 noteで読んだ記事に関連して思うことについて。



インフルエンサーの人生の目的のなさに辟易する. / #日々短文雑記』 by 落合陽一さん

1週間以上前の記事ですが、まだ無料で読むことができるようです。note でも「スキ」の数が多く、Twitterでも「わかる!」というようなリツイートや「♡」マークの数が多くて、同意されている方が多数いるようです。

記事のトップ画像から、立入禁止とされる場所へ立ち入って「すごいだろう」というような動画や写真をインターネット上にアップして注目を集めるような人たちのことを意図しているのだろうと推察します。

私はインフルエンサーでも何でもないし、危険やルールをおかして立入禁止区域に入ったりするようなこともしたりはしないのですが、この note を読んで、単純に「そうだ!そうだ!」という気持ちには、なれませんでした。

もちろん、「有名になりたかった」「注目されたかった」というだけの理由で、犯罪行為や、犯罪スレスレの行為を動画撮影してインターネット上にアップする、という行動は理解できません。ただ、「人生や行動理由の目的のなさ」という点において、自分はどうなのだ?という疑問が先にやってきます。

「スキ」や「いいね」できる人たちと言うのは、おそらく人生に目的があり、自らの行動理由にステートメントや目標・目的があるのだろうと、うらやましく思います。

落合陽一さんの文章は、最近読み始めたばかりなのですが、言葉の選択が私にはすごく独特に感じられます。持っている知識が全然違うせいだと思うのですが、雰囲気はなんとなく分かった気がするもののよく意味がわからない…と思うことがよくあります。

今回の文章も、一部理解できていないと思うのですが、これだけ思ったことをそのまま強い言葉で言えるというのは、それだけ日々の自分の行動に疑問がないということだと思うので、とにかくうらやましいです。

私は人生に目的がない

この note を読んで、単純に「そうだ!そうだ!」という気持ちに私がなれなかったのは、私には人生の目的がないと自覚しているからだと思います。

私のような凡人も、これまで人生の選択を迫られることは何度かありました。受験する学校を決めたり、仕事を決めたり、人生の目的が定まっている人たちは、ここで選択に迷うことはないのだろうと思いますが、私はずっと目的が見つからないままの人生だったので、決められないまま流れで今の人生を送っているに過ぎません。

多くの人は、一度くらいなぜ自分は生きているのかを考えたことがあると思いますが、私が学生時代に得た結論は、「死ぬ理由がないから寿命が来るまで生きているだけ」というものでした。

何で自分には人生の目的がないのだろうか…とむなしい気持ちになるたびに考えることを今日は文字にしてみました。面白くもなんともない投稿ですが、同じような思いの方たちが何かを見つけるきっかけになれば、そして自分自身も今後何かをみつけるきっかけになれば、と思います。

あきらめた最初の記憶

自分には何かやりたいことがあっただろうか?と考えるときにいつも思い出す最初の記憶は、3歳の頃、何かで見たのか何だったか記憶があいまいですが、憧れていた楽器があって、習いたいと親に頼んだら、「お金がかかる。うちにはそんなお金はないから無理。」と一蹴されたことです。

親を恨んでいるわけではありません。そこでやらせてもらっていたとしても、本当に続けていたかはわからないし、3歳の自分が、これを自分の一生の仕事にするのだと覚悟をもって親に頼んだとは思えないので。

ただ、以降、「お金がないからあきらめる」という経験をその後も何度かすることになります。

あきらめた次の記憶と進路選択

代わりになのか、3歳から別の習い事をさせてもらっていましたが、それは自分でやりたいといったものだったのか、姉がやりたいと言ったものだったのか、記憶にありません。

それでもやり始めるとたのしいもので、3歳から小学校2年生までその習い事は続けましたが、先生が産休に入ることをきっかけに、「ここから先はうちではどうにもできないくらいお金がかかるからそろそろやめよう」と親に言われてやめることになりました。

基本的に、妹である私の習い事は、1歳違いの姉のついでに決まっていき、小学校中学年くらいまで、姉と私は同じ習い事をしていました。

進路選択にあたっても、「私立はお金がかかるから」「お姉ちゃんが私立しか行けなかったらおまえは絶対に国公立しかない」と言われていたため、「何を学ぶためにどこの学校を選択するか」ではなく「お金がかからない進路はどこか」という視点でしか進路選択をしなくなっていました。

今になって思うと、そんな親の表面的な言葉に惑わされず、自分が本当にやりたいことは何なのかをきちんと考えて子ども時代を過ごすべきだったのだと思います。高校生・大学生になれば、自分で稼ぐことも難しくなかったのに、考えることを放棄してしまったことを後悔しています。

大学受験失敗

私はどちらかと言えば、小さいころから勉強は得意なほうで、何かを学ぶということ自体が好きで、高校受験まではとくべつなことをせずとも、それなりの学校にすんなり進学できましたが、大学受験には失敗し、予定していた大学に行くことはできませんでした。

目的がなかったためだろうと思います。周りが目的をもって勉強し始めた頃、目的がない私は「受験のための勉強」には身が入らず、将来のことを考えず、プロになるわけでもない部活動に時間と気力をかけ過ぎて、成績はどんどん落ちていきました。

「予定していた大学に行くことはできませんでした」とはいっても、そもそもの目的がないので、これによって私の人生が大きく変わってしまった、ということはないと思います。

人生をやり直すことができるならどこからやり直したいか、という質問がありますが、私は最初に何かをあきらめた3歳の頃か、もしくは中学か高校の頃に、今の記憶をもったまま戻り、違う選択をしてみたいです。

『あなたの作品は何ですか』 by 小田和正さん

大学受験に失敗した原因は、目的がないことであると自覚していた私は、学生という時期がおわったあと、自分は何で生計を立てていくのかということで悩み始めます。

18,9歳から20代の10年余りの間、とにかくたくさん本を読んでいたように思います。この流れからすると、人生の目的を探して、となるべきですが、そうではなく、あまりに暇でお金もなく、自宅にあった本を片っ端から手に取っていた、というだけです。

その時に出会った本に衝撃を受け、その作家の本を全部読みたくて、古本屋にあるだけの本を買って帰っては何度も同じ本を読み耽る、ということを数年繰り返していました。

古本屋に行ったついでに、他にもおもしろい本はないものか、と物色しているときに見つけた小田和正さんのエッセイ本の一言が、今でも記憶に残っています。

テレビで「クリスマスの約束」を視聴する程度で、小田和正さんの熱烈なファンというわけでもなく、そのエッセイ本も、あまり私には合わないな…と思いながら読み進めていたのですが、この一言だけは強烈に記憶に残っています。

本のタイトルも内容も正確に覚えていないのですが、小田さんがご自身の作品だったか別の方の作品だったかを批判されたときに思うこと、というような文脈だったと思うのですが、「あなたの作品は何ですか?」と問いかけられていました。

そのエッセイ本を「あまり私には合わないな…」と思って読んでいた私は、何の作品も持たない私が何を偉そうなことを思っていたのだろうかと恥ずかしい気持ちにさせられました。

と同時に、何かを生み出しているいる人たちのこと・自分の作品がある人たちのことをひどくうらやましく思いました。

病気で死を現実的に考えたときに思ったこと

結局、人生の目的をみつけることができないまま、社会人になるべき年齢に達してしまった私は、「生活できるだけの給料がもらえる仕事」という理由で、バイトではない最初の仕事に就くことになります。

当時は就職超氷河期と言われていた頃で、私は運がよかったのだと思います。目的も、働き続ける覚悟もまだない私の採用を決めてくれた人は、私が率直に応募理由を述べても、ばかにすることなくきちんと対応してくれたことを今でもぼんやり覚えています。

結局、会社や業種は変えながらも、この時の職種のつながりで今も仕事を続けられているのは、この人のおかげです。

とりあえず働きながらやりたいことを見つけていこうと、腰かけ程度の気持ちで始めた仕事でしたが、結局その後もやりたいことなど見つかることもなく、いろいろありながらも20年以上が経過して今に至っています。腰かけの気持ちがなくなったのは、家族をもち、自分が大黒柱となってからです。

息子が生まれて、しばらくしたころ、体調に異変を感じ、病院に行くことになりました。何度かの通院の結果、悪性腫瘍の可能性があるとの診断を受け、夫はちょっとしたパニックになっていました。

何度かの通院で検査結果が思わしくなく、医師がだんだん悪い結果を覚悟させるような物言いになってきていたので、悪性の可能性があるのかもしれない、と思いながらも、長寿家系で長生きのリスクしか考えてこなかったので、血液検査と尿検査の結果からは悪性の可能性が高いため内視鏡検査で確認したい、と言われたときは、私も少々どきどきしました。

指摘されている部位が悪性腫瘍だった場合の生存率や平均余命をインターネットで調べたり、夫と息子が残されたらどうやって生計を立てていくことができるかを算段しているうちに、夫と息子には申しわけないけれど…息子の学費はすでにある程度貯蓄してあるし、私が死ねば住宅ローンは返済の必要もなく管理費と修繕費だけで住居費は済むし、当面は夫が働かなくても生活できるだけの預貯金はあるし、私自身、これといってこの先やりたいことがあるわけでもないし、死ぬにはまだちょっと早い年齢かもしれないけれど、それほど悲観することはないのではないかと、数時間ほどで冷静になってきました。

スティーブ・ジョブズさんのスピーチで、今日が人生最後の日だったらどう過ごすか、明日死ぬとしたら今日これからやろうと思っていることをやるのか、というような言葉がありますが、私は長寿家系で長生きするであろうと思っている一方で、同じようなことを考えてもともと日々を過ごしてきたところがあります。

夫や親に対してネガティブな発言をするときも、明日は来ないかもしれないという気持ちで、それでも言うべきだと思うことだけを発言するようにしています。長生き家系なために将来のために収入の全額を使わないで預貯金に回す一方、今もたのしむことができなければ意味がないと思ってバランスを大事にしています。

明日死ぬのであれば、仕事には行きませんが、そこは現実的に、明日死なない可能性のほうが今は高いため、仕事には行きます。家族や自分の衣食住や娯楽のため、将来のため。いつ死ぬかはわからないないので、刹那的ではなく、でもそれがいつであっても自分で何とかできる後悔はこれ以上しないように、ということは日々心がけている、という点も、目的がないということとあわせて、悪性腫瘍の可能性を医師から伝えられても、冷静でいることができた理由であろうと思います。

結局、担当医が疑った部位に悪性の腫瘍はなく、別の臓器の問題として、現在も定期的に通院はしているものの、数年のうちに死に至るような病では現状ないようで、定期通院していること以外はもとの生活を送っています。

近いうちに死ぬのかもしれない、と現実的に考える、という経験は初めてのことでしたが、ここでも私の人生の目的のなさが現れているように思います。

息子は人生の目的をみつけることができるだろうか

親が授業参観に来るとか、部活動の試合の見学に来るとか、親が自分の社会に関わってくることが、子どもの頃から私は好きではなく、私のために親自身がやりたいことを我慢する、ということを感じるのも嫌だったので、息子との距離感はどうあるべきなのか考えています。

息子はまだ5歳だからなのか、それとももっと歳をとっても私のことを必要としてくれるのかは分かりませんが、今は一緒に遊んだり一緒に過ごしたりすることを強く求めてくれるので、できる限り一緒にいることを大事にしています。

自分でやりたいこと・たのしいとおもうことが分かっている、ということは、それが何であれ、人の道に外れることでない限りは、自由にさせてあげたい。やりたいことがあれば経済的な理由で断念させるようなことはさせたくない、と思って、子どもをうむなら絶対に1人と決めていました。

本当にやりたいことがあれば本人のがんばりで後天的に如何様にでもできるのかもしれないし、私の過去の失敗も、私自身の工夫や努力が足りなかったためであることが大きいのだろうと思いますが、小さいうちに外的要因であきらめるという気持ちを育てないこと、本人が興味をもっていることをほめて得意なことに気づかせること、は気にかけています。

私のように、人生の目的がなく、何十年も悩むようなことがなければいいなあと思う反面、同じように目的が見つからないままだとしても、たのしいことを見つけて生きていくことができればいいなあと願っています。

2020年5月吉日



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