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『体験格差』について思うこと

こんにちは、にわです。
最近(私のインターネットで)よく見聞きする『体験格差』について、思うことを記載したいと思います。

 

『体験格差』について、見聞きしている意見としては以下のようなものがありました。

  • 体験格差は問題なので格差をなくしてあげたい
  • そもそも体験格差は本当に問題なのか?
  • 体験=よいもの、は大人の思い込みでは?

 

私の考えは、子ども本人が体験したいと思っているのに、家庭の事情で体験できない、というケースは解消できるのであれば解消してあげたいが、かといってなにもかも対応できるわけではないことは仕方がない、です。

 

「体験=よいもの、は大人の思い込みでは?」という考え方は、おそらく自身は子どもの頃からある程度恵まれた家庭環境にいて、自分はやりたくない習い事等をやらされて身にならなかったし、今も自身の子に一定の体験を提供できる環境にあって、与えられないことによって困ったことがほとんどない人の考え方のように感じます。

 

過去どこかの投稿でも書いたように記憶していますが、私自身は、経済的には中の中~低くらいの家庭環境に育ち、自分で初めてやってみたい、といった習い事はお金がかかるから、という理由でやらせてもらえず、その後も、1つ違いの姉の習い事に付き合わされる形で、いくつか習い事はさせてもらえたものの、お金がかかるタイミングで辞めさせられたり、姉が優先されたり、とだんだん「〇〇をしたい」と言ってもどうせできないのだろうと思い、言うこともなくなりました。「お金が理由で選択できなかった」という思いが、40年前後経過した今でも、強く残っています。

 

とくにそのことを恨んでいるようなことはないものの、いろいろなことをそもそも選択すらできなかったということが、私の人格形成にそれなりに影響していると感じます。

 

もう大人なので、今はやりたいことがあれば自分でどうにかすればよいので、いまさら過去について思い悩むことはありませんが、「やりたくなかったのにやらされた」「行きたくなかったのに私立受験させられた」というような話を見聞きすると、(そういうことを自分はしたくてもできなかったので)すこし気持ちがざわつきます。

 

今、我が家には息子が1人います。
子はいても1人、と決めていたのは、我が家の状況(経済面からも、夫と私の性格的な観点からも…)では1人が精いっぱいであり、自分のように、やりたいことを我慢し続けた結果、やりたいことがなにもないような大人に成長してほしくないと思っていた、ということも理由のひとつです。

 

「本当にやりたいならどんな環境にいてもできるはずだ」「結局その程度の気持ちだったのだ」という意見もあろうかとは思いますが、そもそもやってみなければわからないのに、それほどハードルを上げないと最初の一歩も踏み出せないという点が(環境によってできない子にとっての)問題なのだと思います。

 

やってみた結果、ちがった、ということもあるではないか。

 

しかしながら、私の思いとは裏腹に、当の息子は、あれこれやりたいと言わないタイプでした…。それでも、毎日たのしみにしていることがあって、少なくとも今のところは…朝起きるのが日々たのしみなようであるところは、よかったと思っています。

 

そういう毎日を続けるために何をしなくてはならないかよく考えなさい、ということを最近はよく話しています。

 

2025年6月吉日

 

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