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日本の教育と「好き」が見つからない問題について考える

 

こんにちは、にわです。
何に対しても強いパッション/興味関心がないことに、長らく悩んでいましたが、そういう人は少なくないようである、ということを最近知りました。

 

「やりたいことがわからない」「好きなことが見つからない」という相談や共感をよく目にするように感じるのは、自分がそうだからそういう情報が目につきやすいのかもしれないものの、東洋経済の記事にもなる程度には、メジャーな悩みなようです。

 

たまたま目にした東洋経済の記事のタイトルは『日本に多い「好きな事が見つけられない人」の盲点 -自分の中に眠っている「好き」を発掘するには』というものなのですが、この悩みは日本独特のもので、諸外国ではあまりない悩みなのだろうか。

 

この記事に記載されている次の文章が印象的でした。 

ジョージタウン大学のカル・ニューポート氏の調査によれば、「天職に着くことができた人の大半は、偶然の産物でなんとなくやっていたら楽しくなってきた」という結果があります。そして同時に、このプロセスには時間がかかるそうです。

皮肉なもので「効率的に好きを見つけて食べられるようにしよう」という思考が、一番非効率なのかもしれません。論理的に説明できない関心事こそ、育む価値があるかもしれません。

 

「好きなことで稼ぎたい人」がだいたい陥るワナ -好きなことと稼げることは別物という現実』という記事によると、

世界的調査会社のギャラップ社が139カ国の企業に行った調査では「熱意を持って仕事に取り組んでいる」 と答えた日本人は全体の6%に過ぎず、逆に 「やる気がない」という回答は70%。世界で132位、圧倒的に下位に位置します。 

ということなので、やはり諸外国と比較すると日本に多い悩みなのかもしれません。

 

個人的な印象としては、日本の学校では、みんなが同じことを同じペースで同じようにやることを求められるし、新卒で就職しないと職探しが大変だし(最近はそうでもないのかな?)、今、息子が小学校に通っていて感じるのは、学校に費やす時間が思った以上に長く、学校以外のことに使える時間があまりに少ないので、「好き」を発掘する時間も環境も狭められているのでは、ということです。

 

三十代前半ばくらいまでは、何に対しても強いパッション/興味関心がない自分に悶々としていましたが、ここ数年はめっきり悩むことはなくなりました。自分のことより息子のことが気がかりだからか、単に歳のせいなのか、成り行きで始めた仕事を20年以上も続けることができているからなのか。衣食住足りてこその贅沢な悩みである気もします。

 

今は、心乱されることが起こらず、平穏な気持ちで毎日おいいものをたべて過ごすことができれば、それだけで満足です。やりたいことや好きなことはわからなくとも、どうありたいか(ありたくないか)は明確なので、それで十分な気がしています。もっと若い頃にそう思えていればよかった。

 

以下の東洋経済の記事も悩める人にはヒントになるかもしれません。

「好きなことを仕事にしたい」悩む人が見逃す真実 -「好き」に役割や価値を求めてしまうと続かない

自分の「やりたいこと」が明確になる2つの仕掛け -まずは「したくないことリスト」を作ってみよう

「やりたいことが見つからない」人の残念な思考 -「やりたいこと探し」に時間を浪費する本末転倒

 

もう悩んでいないのに、ついいろいろ読んでしまいました。

 

好きなこと・やりたいことに迷いなく大人になったように見える人も、そうでもないようです。ゲーム好きな息子に感化されて、「ゲーマー」という肩書に興味があって、梅原大吾さんの本をいくつか聴いてみたのですが、とてもおもしろかったです。Audibleの聴き放題で聴くことができました。

 

 

 

 

勝ち続けることとは、成長しつづけることであり、それが自分が幸せな状態である、というような考え方が何度も出てきます。途中、キャリアに迷いつつも、最終的には、自分が幸せな状態が明確で、成長し続けること、というポジティブな思考が、この人の強さのように感じました。

 

「ゲーマー」ときいても、あまり興味をそそられない方のために、梅原大吾さんについて、これらの本から私が知ったことを追記します。

 

格闘ゲームから別の勝負の世界への移行を試みて、移行先として麻雀を選択します。雀荘で働きながら、麻雀について学び、プロとしてやっていけるくらいまで力をつけるものの、勝負の世界で生きていくこと自体をやめることを決意し、介護福祉の仕事を始めます。

 

ゲームから麻雀、という発想も、麻雀に縁のない私にはびっくり。介護福祉の仕事は、お母さんが医療関係の仕事をされていたことから、選択肢として出てきたようなお話をされていました。ご家族との関係は非常に良好なようで、梅原大吾さんの人生には、ご家族の影響も多分にあることがうかがえます。

 

介護福祉の仕事を1年くらいされるのですが、偶然が重なって、また格闘ゲームの世界に戻ることになり、そこから迷いなく、現在に至るようです。麻雀や介護福祉の仕事に費やした経験が、今の強さに影響を与えているように感じます。

 

格闘ゲームの世界で勝つために努力されていた学生時代の思考として、高校球児と同じように、むしろそれ以上に考え、努力しているのに、甲子園球児は華々しく取り上げられ、インタビューなどされる一方で、自分は格闘ゲームがいかに素晴らしいかというところから説明しなくてはならない、球児たちは野球の素晴らしさなど説く必要がないのに、というような逸話が出てきて印象に残っています。

 

マイナー・スポーツ以上に、ゲームはマイナス・スタートだったのだろう…と想像します。私も今でこそ、ゲームを愛する同僚たちからゲームのすばらしさ・奥深さを学んでいますが、それまでは、所詮人がつくったプログラムの中の話ではないのか?と、ゲームにそこまで深さがあるとは思っていませんでした。

 

すこし読んで(聴いて)みたくなったでしょうか?

 

このブログを書いていて「人生の変わり目はだいたいにおいて、向こうからあなたを選びます。あなたが選ぶことはほとんどありません。ほんとに。」という、昔、読んだ村上春樹さんの本を思い出しました。すっかり忘れていた。人生は自分で選び取っているようで、選べないことのほうが多い、というようなことも語られていたような…。

  

2023年6月吉日

 

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