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母親について

 

こんにちは、にわです。
昨年の母親の誕生日前後に、母親について書いてみようかな…と途中まで書いたままだった投稿に再着手。

 

昨年の春から夏にかけて、学びの機会に関するツイートを目にする機会が多く、中卒の母親のことを思い出し(…と書くと故人のようですがまだ存命です…)母親について私が知っていることを覚えているうちに記録しておこうと書き始めたものの、最後まで書けずに別の投稿ばかりしていましたが、先日、職場における女性に対しての自分のネガティブな思考を書いているうちに、また母親のことが脳裏に浮かび、再着手することにしました。

 

生まれ

母親は1942年生まれなので、2024年の今年、82歳になります。

 

栃木県の山奥で生まれ育ち、姉・姉・母・弟・妹という5人兄弟の真ん中です。

 

高校には行かせてもらえなかった

祖父母がどのような仕事をしていたのか、よく知りません。小学生の頃はほぼ毎年、家族みんなで祖父母の家を訪ねていましたが、その頃すでに私の記憶にある祖父は、足が不自由で、ほとんど歩けず、いつも同じ場所に座っており、耳も遠く、会話した記憶もほぼありません。

 

周囲には温泉旅館やお土産屋さんが数軒あるほか、最寄りの駅というようなものも徒歩圏には見当たらず、田畑もないので農業で生計を立てる地域でもなかった思われます。

 

母のすぐあとに、長男が生まれたこともあってか、祖父は「女に学問はいらねえ」という昔の典型的な人で、母親は高校には行かせてもらえなかったと未だに嘆いています。

 

成績はよかったが高校に行かせてもらないので、クラスの別の子に成績をゆずるよう先生に頼まれた、というようなことをよく言っていました。昔はそういうことができたのだろうか?

 

最近、受験生の親御さんのSNSやブログで、内申について書かれているのをみることがあるのですが、そんな仕組みが自分の時代にもあったことに、まったく気づいていませんでした。

 

母親より7つ年下の1949年生まれの父親は高卒で、両親はどちらも大学には行っていません。本人申告なので、どこまで本当かはわかりませんが、嘘をつくようなことでもないので、8割方本当だとは思っているのですが、ふたりとも学校の成績はよかった、お金がなかったから進学できなかったのだ、と言っています。

 

父親は、3歳の時に母親を癌で亡くし、その後、小学生か中学生の頃に父親も亡くして、お兄さん夫婦に育ててもらって高校に行かせてもらったので、大学進学なんてまったく考えられなかったのだろうと思います。

 

このように、ほんの一代前を振り返ると、自分は大学進学が当たり前という環境で育ててもらったことはとてもありがたく思うと同時に、親世代や自分よりひと回り以上うえの世代で、当然のように進学した方々のエピソードを見聞きすると、少々複雑な気持ちになります。

 

両親とも、学歴はなく、頭がいいなあ!と感嘆したことはないものの、頭が悪いと感じたこともまたありません。私自身も高学歴なわけではないので…偉そうに言える立場ではないのですが、二人とも、とにかく本をよく読んでいたからなのだろうか?

 

母親はよく図書館で本を借りてきて、時間があれば本を読み、家事をしながらラジオを聴いていました。新聞のクロスワードパズルの類もよくやっていましたが、脳トレのような疲れる遊びに私自身はまったく興味がありません。

 

息子も、私が読書や机に向かって勉強をしていても「勉強がたのしいのはあんたん(←私のこと)だけだから!」と冷ややかです。二代続けて、子は親に似る説がまったく当てはまりません。

 

仕事

母親が父親と結婚したのは、32-33歳の頃で、当時としてはだいぶ晩婚です。中学を卒業してから15年以上、何をしていたのか?

 

時系列で詳しく聞いたことはないのですが、父親と知り合うきっかけになったのは、記憶が正しければ…実家の1階を改修して食堂を営んでいた頃に客として来た父親と知り合った、のだったと思います。

 

つまり母親の結婚前の最後のキャリアは自宅の一角での食堂経営です。母親は料理が得意なわけではないので…疑問ですが、家賃がかからないとはいえ、きちんと赤字を出さずに経営できていたようです。昔は簡単に調理師免許が取れたそうで、両親とも調理師免許を持っています。

 

父親は高校卒業後、三種国家公務員となり、母親の実家近くにたまたま赴任していて知り合ったということでした。

 

食堂の前は、地元の人の紹介で、観光バスのバスガイドのようなことをしていた、という話を聞いたことがあります。母親は人前に出るタイプの性格ではないので、この仕事もまた疑問ですが、母親曰く、中卒の自分に選択肢などなかったのだということでした。それで食堂を始めたのかもしれません。

 

父親と結婚して母は専業主婦になります。私が2-3歳の頃に、父親は都内勤務となって、家族で首都圏に引っ越しています。

 

その後、私が中学か高校の頃に、姉と私の学費のためと思われますが、母親は結婚してから初めて仕事をすることに。父親の紹介で、公務員の事務所のようなところの事務作業員ですが、履歴書を一応出さねばならぬということで、母親が履歴書を一度も書いたことがないということをその時に知りました。

 

その後、バイトを含めて山ほど履歴書を書くことになる、超氷河期世代の私にはびっくりです。

 

母親として

そんなこんなで、私の記憶にある母親のほとんどが、専業主婦としての母親なのですが、いくつか、深く記憶に残っているエピソードがあります。

 

父親は高卒で三種国家公務員になり、何年か前に定年退職するまで、ずっと公務員として勤め続けましたが、何度か胃潰瘍などで体調をくずしたり、仕事をやめるのでは…という精神状態に追い詰められているような状況を目にしています。

 

一番ひどかったのは、当時の父親の直属上司とあわなかったときで、勤務地も少々遠く、心身ともに相当参っていたようで、あるとき、もう仕事を辞めるかもしれないと口にするのを初めて耳にしました。

 

父親は「自分には民間勤めは務まらない」とよく言っており、父親の目には民間企業は実力主義で厳しいところ、と映っていたようです。公務員は2-3年ごとに異動があるため、父親は結局やめることなく異動までなんとかがんばり、以降は、その時ほどつらい職場は経験することなく無事(早期)定年退職まで勤め上げました。

 

この父親が仕事をやめるのでは、という場に私も立ち会って母親とともに父親の話をなぜか聞いていたのですが…「やめても構わない」という発言をしたときの母親の様子も明確に記憶に残っています。

 

父親が仕事をやめても母親自身が代わりに働いて一家を支えるという気はさらさらなく、やめてもまた家族が生活できるだけの仕事をみつけてくれれば構わない、という無責任な物言いに私には感じられ、自分だったら「やめても構わない」というときは自分が働く覚悟がなくては言えない、と思って、もやっとしたことを今でもふとした瞬間に思い出します。

 

ただ、父親自身はおそらく母親にそんなことは期待していないので、もやっとしたのは私だけで、父親は(母親の発言に対して)何とも思っていなかっただろうと思います。

 

この十年以上あとに、父親は(早期)定年退職をするにあたり、公務員宿舎を出なくてはならないため、自前の住まいを探す中で、地元に戻るか、首都圏のマンションを買うかということになり、首都圏にマンションを買うことにしたのですが、「40年勤めてこんな小さな部屋しか買えないなんてねえ」と一緒に内見に立ち会った私に母親が漏らした言葉に、またもやっとさせられました…。

 

これらの部分を取り上げると、母親に対してネガティブな感情ばかりもっているように受け止められるかもしれませんが、私が今、専業主夫である夫に対して、一日の家事をその日のうちにおえられないことに対していらいらするのは、母親は一日の家事をその日のうちにおわらせていた人だったから、だと思います。

 

質はともかく、毎日、炊事・洗濯・掃除をして、自分の時間もそれなりに持てていた母親の姿が記憶にあるので、それが私には標準で、求めるシュフ像になっている、という意味では、母親は主婦としては一定の結果を提供してくれていたのだと思います。

 

学校の役員も何度かやっており、ご近所づきあいも普通にしており、父親が家に職場の人を連れて帰ってくれば料理をつくってもてなし、私には到底できない種類のことをこなしているうえ、主婦業についてネガティブな発言をしているところを耳にした記憶はまったくありません。

 

私はどちらかと言えば、父親の感情や考えが理解しやすく、母親とは、見えている世界や、不満に感じるポイントがまったく違うのだろうと思います。

  

2024年2月吉日

 

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