こんにちは、にわです。
現在、年長6歳の息子をみていると、人の性格は先天的に決まる要素が多いのではないかと考えさせられることが多々あります。
目次
ふてくされると謝ることができない
息子をみていて、これから苦労するかもしれないなあと思うところは、気に入らないことがあると、すぐふてくされ、泣くか激高するかして、その態度が相手を不快にさせて喧嘩に発展したときに、自分からはなかなか謝ることができない、というところです。
子どもなんてそんなもの、という意見もあろうかと思いますが、不当な扱いを受けても激高しない子どもは息子の園の子どもをみていてもいるし、自分が子どもの頃を振り返っても、人格者のような子どもはいたので、「子どもだから」は理由にならない気がしています。
今のところ、息子が激しく感情をぶつけてくるのは、夫か私だけで、園では意識的にか無意識的にか感情を抑えているのか、あるいはそもそもそこまで腹を立てるようなことが起こらないからなのか、園の先生からそのような指摘を受けたことはありません。
親の要素が関係しているのか?
私自身、自分に非があれば謝るものの、自分が謝る場面ではないという結論に至った場合は絶対に謝りません。
自分に非があり、もう二度としないという反省の気持ちがなく、その場をおさめるために口ではとりあえず謝る、という行為はむしろ不誠実なように感じるためです。
同じことが起きた時に、自分がとる言動はきっと変わらないだろうと考えると、謝罪という帰結は違う気がします。
息子が自分から謝ることができないのは、私の性格に起因しているのだろうか?とふと考えることがあります。
自分の性格を振り返る
小学生くらいになると、自己紹介で自分の性格について言及させられたり、人との関わりが増えて、社会の中で生きていくことを学ばされ、自分の性格について考えさせられることが増えるように思います。
子どもの頃、自己紹介で「明るい」と言ったり書いたりする人がたくさんいましたが、私は自分で自分を明朗活発な性格とは思えなかったため、この便利そうな言葉を自己紹介で使うことはできませんでした。
自己主張が強く、喜怒哀楽の激しい姉がいたせいか、揉めて平穏な日常が崩れるくらいなら、自己主張せず我慢することを私は子どもの頃はとくに選択してきたように思います。
小学校高学年の頃と、その後、大学を卒業して働くようになってからと、子どもの頃と大人になってからと、2度ほど自分の性格改善を試みた時期がありましたが、私の結論は「性格は変えられない」です。
私の取り組みが甘かっただけかもしれませんが、以下が私の得た結論です。以降、もう何かを無理に変えようと思うことなく、今に至っています。
- 本来の自分ではしない言動をすることはひどく疲れる
- 疲れるわりに想定したような結果は得られない
- どちらにしても想定した結果が得られないのであれば、無理をしないであるがままの自分と結果を受け入れることのほうが自分には苦痛が少ない
本来の自分の言動では、理想の結果を得ることはできないけれど、がんばってみても結果が変わるとは限らない、ということを念頭に置いておくだけで、望まない結果に至った場合も、自分が受け入れるべき結果と捉えることができるようになりました。
性格は変えられないとあきらめた一方で、自分が理想とする人物像を思い浮かべ、この人だったらこの場面でこうするかも…と考えて実践してみる、ということは苦痛ではなくゲームのような感覚で、たまにやってみることはあります。
思っていもいない言動をとる、ということでなければ、苦痛は少ないのかもしれない…と今、このブログを書いていて気がつきました。
子どもの頃にも人格者はいた
私のこれまでの四十数年を振り返って、「自分もあんな人になりたいなあ」「あの人は本当に非の打ち所がない」「この人を嫌いな人なんていないだろうなあ」と自然と思わされる人格者のような人が1人だけ頭に思い浮かびます。
多くの人は長所も短所もあり、ですが、この人のことは小学校のときに知り、その後、中学で同じ部活動に所属して、1年先輩だったため、2年ほどわりと近しい時間を過ごしました。
中学を卒業してからは、何度か会っただけなのですが、今振り返っても、その後の私の人生で、この人より人として優れた…という言葉が正しいのか、適切な言葉が思い浮かびませんが、こんな人には出会えませんでした。
当時、私が仲良くしていた友人が、この先輩をすごく慕っていたため、私は近くでその様子を眺めていただけで、当時はこの先輩のすごさにまったく気がついていませんでしたが、その後、人間のだめな部分を多く目にするに従い、この先輩のすごさが今になって大きく感じられるようになりました。
人の性格は後天的に改善できないのではないかと私が考えるのは、このことも関係していると思います。成長の過程で人がよりよくなれるのであれば、世の中はもっとましな大人であふれているはずなのに、子どもの頃に受けた指摘を修正できた大人はほとんどいないのではないか?大人になってからのほうが、人が抱える問題はより根深くなっているように見える。
気質・性格・人格・性質・特徴
息子について心配な点のひとつは、激高したときに、物にあたったり、大声で叫んだり、人を叩いたり、人が変わったような振る舞いをするところです。
同じ年頃の子どもを育てている方のTwitterやブログをみていると、癇癪を起す子どもというのはそこそこいるように見える。一方、大人になると、癇癪を起す人、というのは少数派に思える。
この点はある程度、成長の過程で修正することができるのかもしれないと思う一方で、内弁慶とか家庭内暴力という言葉があるように、自分のごく身近な人たち以外には感情の発露を抑えることができるのに、身近な人にはむしろ爆発してしまう、という人も一定数いる、という現実が私には気がかりです。
私自身は、親しき中にも礼儀ありというか、親兄弟姉妹であっても言ってはいけない言葉、やってはいけない行為があると小さいときからぼんやり感じており、ある程度成長してからは意志の力で言動を制御していることを自覚しています。
インターネットで性格の先天性や後天性について調べていると、「気質」というものは先天的な特徴を指す言葉であり、先天的な「気質」で構成されていた「性格」は、その後のしつけや教育などの成長の過程で後天的性質を与えられて変容させることが可能、らしいです。
「性格は変えられない」と私は結論付けましたが、世の中一般的には、「気質は変えられないが性格は変えられる」もののようです。
中学の時のあの先輩は、今、何をしているのだろうか。どんな大人になったのか、とても気になる。
2020年8月吉日