こんにちは、にわです。
5歳の息子を見ていると、はっとさせられることがしばしばあります。今日はそんなことのひとつを記載したいと思います。
ある日のできごと
息子は私のことをだいすきと言う一方で、私の言葉は信じていないだろう…という言動をとることがしばしばあります。
例えば、虫に刺されて皮膚が腫れたり、どこかにぶつけてちょっとした傷ができたりしたとき、私は「大丈夫大丈夫。こんなのほうっておけばすぐ治るから。もしくは何してももう歳だから治らないから。」と言うと、「だめだよ。おんたむ(夫のこと)にクスリ塗ってもらわないと!クスリ塗れば治るっておんたむ言ってたよ!」と言ってきます。
「いやいや、私も大人だから。自分のことは自分でできるので大丈夫。」と言っても、「おんたーむ!ちょっときてー!!」と言って、私の言うことは聞いてくれません…。
またあるときは、夫に何かを教わったのか、「これはこうしちゃだめなの、わかる?こうするの!」と私に説明してきます。「ほんとにそうしちゃだめなの?なんで?誰が言ったの?」と聞くと、「おんたむ(夫のこと)」と答えます。「おんたむが言ったらぜったい正しいの?」と更に聞いてみると、「そうだよ」と何のためらいもなく答えます。
私は「今はいいけど、もう少し大きくなったら自分で考えなさい。私たちの言うことが必ず正しいとは限らないよ。」と言ってみるのですが、自分にも、息子と同じように、親や大人が言うことは絶対だと思っていた時期はあったのだろうと思います。
親や先生の言うことを聞いてもらうことは、事故にあったりなどの危険を防止するためにも、ある程度の年齢までは生きていくうえで絶対に必要、という意見もあるようですが、個人的には5歳はもう十分自分で考えられる年齢だと思うので、もっと自分で考えてほしいと思ってしまいます。
自分はどうだったのか
自分はいつから親や先生、大人たちの言うことが必ずしも正しいわけではないと思うようになったのか。何か具体的なきっかけはあっただろうか…と考えてみたのですが、明確なきっかけのようなものはまったく心当たりがありません。
いくつかの具体的なエピソードは頭に浮かびます。ひとつひとつの小さな出来事が積み重なって、大人も間違える、必ず正しいわけではない、という認識が徐々に確固たるものになっていったように思います。
例えば、私は親が学校行事や部活動の行事に来ることが好きではなかったので、何かのときに、「来なくていいよ」と言ったら、母親が「もういい」と、ひどく不機嫌になったことがありました。
今は当時の母親の気持ちも理解できますが、私は感情をあらわにする人が苦手なので自分が嫌なことは人にもしないという教えのもと、人に対して感情をあらわにしないように子どもの頃からしていたため、なぜ母親は感情を出すことを抑えられないのだろうか、と思ったことをよく覚えています。
私の父親は、いわゆる「瞬間湯沸かし器」と呼ばれるようなカッとしやすい性格で、すぐ「コラッ!」というスイッチが入る人なので、父親の怒りスイッチについては「またか」という感じで小さい頃から何とも思っていないのですが、姉と私が小中学生の頃は、父親はよく酔っ払って夜中に帰ってきて、大きな声でしゃべることがあり、嫌でした。
今でも覚えているのは、反抗期の姉がなにか口答えをして、酔っ払って声が大きくなっている父親の声がさらに大きくなって、しかも姉をちょっと叩いたかなにかして、傍らで母親が「もうやめてよ…」と泣きそうになっているという出来事。
私は寝たふりをして事が収まるのもじっと待っていました。最悪。酔っ払いも最悪だし、怒られるとわかっている言葉を口にする姉も最悪。その言葉を真に受けてさらに起こる父親も最悪…と布団にくるまって思っていました。
父親が姉に手をあげたのは、私の記憶では、これが最初で最後だったと思います。小さい頃、父親は私たちの躾に厳しかったけれど、手をあげることはありませんでした。
このあたりの記憶は、小学校中学年から中学校くらいのときの出来事だったと思います。この頃にはすでに、大人に対する絶対的信頼の度合いは低下してきているように思います。
私の中で決定的に親が優れた先人ではないと思うに至ったのは、大学生の頃か、社会人になってからのある出来事がきっかけです。祖母がなくなって、母親の姉妹弟間で遺産相続でもめたことがありました。遺産といってもたいした金額ではありません。そのいくばくかの遺産を巡って、父親が、母の弟を貶めるような文書をしたためようとしたことがありました。
こんな文書を送ろうと思っているがどう思うかと父親から聞かれ、私はちょっとびっくりしてしまいました。細かい文章の内容は覚えていませんが、その文書は、父親が書いたことがわかれば、父親自身の品位を疑われるような内容だったと記憶しています。
さすがにやり過ぎだから何もしないほうがいい、と私は父親の質問にこたえ、父親はじゃあやめるか、と言ってやめたものの、私の中にはもやもやとした気持ちが残りました。
普段の父親は、完璧な人間ではないにしろ、常識的な人間で、娘としてこれといって不満に思うようなところはない人なのに、なぜこのような発想が出てきたのか、とてもショックでした。
私もきっと息子に間違ったことを言ってしまうことはあると思うので、息子には「親の言葉だから信じる」のではなく、自分で判断できる人間に育ってほしいです。
2020年5月吉日