こんにちは、にわです。
小沢健二さんは私の好きな音楽家のひとりです。
好きな作家や音楽家は、思想や嗜好がみえるようで、実生活では気の置けない友人等にしか話すことができないのですが、このブログは匿名で書いているので、どんどん書いていきたいと思います。
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2017年のひふみよツアーには、学生時代の友人と行きました。すごくよかったです。心が洗われる。きちんと生きなくては、と思わされる。
今年11月に新木場と豊洲で行われたライブはチケットが取れず…行くことができませんでした。仕事、休み取って準備万端だったのに…。2020年5-6月の東京もしくは横浜公演のチケット抽選申込中です。あたりますように!
小沢健二さん不在の20数年の間は、残された音楽たちを聴いて過ごしていました。20数年の間、聴くことができるって、すごいです。20年どころではなく、この先も聴きつづけることであろう。
2017年の再始動から、今年はアルバムまで発売され、とてもうれしい。「スッキリ」で森アナが、ありがとうございます、と言っていた感じ、とても共感しました。また音楽をつくってくれて、ライブをしてくれて、すてきな世界をわけてくれて、ありがとうございます。せっかくブログをやっているので、ご本人に届くかはともかく、好意的なコメントは積極的に発信していきたい。
ここ最近、テレビにちょこちょこ出演されているのを目にしますが、先日のミュージック・ステーションの風間俊介さんの解説?コメント?は実に秀逸でした。共感!のひと言です。
とくに「さよならなんて云えないよ」のくだり。私もあそこの詞がとても好きです。
「本当はわかってる
二度と戻らないうつくしい日にいると
そして静かに心は離れてゆくと」
2017年以降の作品やパフォーマンスについて、賛否いろいろな声が聞こえてきますが、私は最近の作品もとても好きです。むしろ「今」はやはり「今」発信されている作品たちにより惹かれます。息子は今5歳半で、小沢さんの長男りーりー君と近い年頃だからだろうか。
「アルペジオ」のイントロには何度聴いても一瞬で心を奪われてしまう。新木場でのライブ映像をYou Tubeでみる(聴く)ことができるのですが、アップしてくれている方の歓声も入っていて、まさに!そういう気持ち!
静かめなイントロなのに同時にもたらされる高揚感がなんとも言えないです。最後に聞こえるお姉さんの感嘆も…わかります!ライブに行くことはできなかったけれど、その場の空気感が伝わってくるようでした。アップしてくれた方、撮影を許可された関係者の方々、ありがとうございます!「彗星」や「流動体について」も「LIFE」とのつながりや時間の流れを感じることができて好きです。仕事の都合で、まだアルバムは聴くことができていませんが、すでに手元に入手してはいるので、とてもたのしみです。
小沢健二さんの長男りーりー君と私の息子は同じ年頃なせいか、子どもの存在による影響みたいなものが、身にしみます。「ずっとずっと1人で生きるのかと思ってたよ」という詞が 小沢健二さんの昔の作品にあるけれど、自分もずっとそう思って生きてきて、夫と会い、まさか子どもまで産むことになるとはまったく思っていなかったので、小沢健二さんが長男に向ける眼差しが、あたたかく、希望を感じさせてくれて、この瞬間の奇跡というか、大事にしなくては!と強く思わされます。今、小沢さんに見えている世界と、私が見ている世界は、少なくとも部分的には、似ているのではないかと、僭越ながら勝手に思っています。
子どもは実に新しい発見に満ちていると思う。また、忘れていたことを思い出させてくれたり。自分の親に対する気持ちと、子どもに対する気持ちはまったく異なり、息子がいなければ自分の中にこんな感情があったことに気づかなかった…というより、息子に対して発生するこの感情は生まれることはなかったのでは、としばしば思うことがあります。
「子ども好き?」という質問があるけれど、私はこの質問にいつも好きか嫌いかで答えることができませんでした。今でもたぶんできない。「子ども好き?」という質問は、「人間好き?」という質問と同じで、一概には言えないと思うのですが、私の姉などは迷いなく「好き」と答えるタイプの人です。
「チョコレート好き?」という質問であれば、私も迷いなく「好き」と答えるものの、考えてみれば、チョコレートといっても、好きではないチョコレートもあり、「好き」と答えるとき自分は自分の中でおいしいチョコレートしか頭に浮かべずに答えているのだ、と思い至りました。「子ども好き?」という質問に迷いなく「好き」と答える人たちは、好きな子どものイメージが浮かび、自分は息子がいる今でも、「子ども」のイメージを1つに絞れず、好きな個体だけのイメージが浮かばないためにチョコレートのときのようには回答できないのだと思います。
「子ども」とひとくくりにされても、かわいい子もいれば、そうでない子もいるし、私にとって「子ども」はしたたかで「大人」と大して違いはなく、自分が「子ども」だった頃を振り返っても、単に物理的に小さく、知識や経験が発展途上なだけ、という印象しかなく、子ども=かわいい生き物、という認識はこれまでもなかったし、今もたぶん、ないと思う。
息子のおかげで息子と同じ頃合いのほかの子どもとも多少の関りが発生しているものの、意地悪な子もいるし、 子ども=かわいい生き物、とはなかなかならない。だから、子どもをもつ人生を選ぶかについてはだいぶ悩みました。
育てたようには育たない、という言葉があるように、ニュースで耳にする残酷な犯罪者のご両親のコメントがすごくまともなものであると、自分は子どもに対して責任をもつことができるのか、愛情をもって接することができるのか、反抗期に正しく対応できるのか、事故や病気で先立たれるようなことがあったらどうなってしまうのか、夫との関係が変わらないか、子どものいない人生という選択のほうが自分には向いているのでは、等々、どちらかと言えば、子どものいない人生をもともとは望んでいたものの、夫は子どものいる人生を望み、私も覚悟を決め、息子が生まれるに至りましたが、今は息子が何よりも大事です。
こんな人間が自分の世界にはいるんだ!という不思議。5歳の息子はまだ時間や日にちの感覚があまりなく、夫や私に日々の予定を決められ、明日はこども園だ、もう眠る時間だ、と言われて何の疑いも持っていない。今、自分が時間や日にちの感覚を失い、明日やるべきこともわからないような状態は不安で仕方がないと思うのだけれど、明日についての不安のなさのような子どもの感覚はおもしろいと同時に、正しく導いてあげなくては、という責任感がうまれてきます。
自分は人の親になるに値する人間なのか?という疑念が常にあり、いちいち気になってしまう。私が気をつけていることと言えば、自分がされて嫌なことはしない、という、子育てというより人として守るべき基本のようなことで、例えば感情の起伏、とくに負の感情を表に出さない、情緒不安定にならない、という点にはとても気をつけています。
周囲に情緒不安定な人がいて生活を共にしていると、負の空気に飲み込まれそうで、私は絶対に、少なくとも息子の前では常に安定した振る舞いをするのだと心がけています。不安な気持ちは伝染するように思うので…。たのしいこと、うれしいこと、好きなこと、物事の良い面に目を向けてほしい。負の空気に飲み込まれない強い人間になってほしい。
息子が生まれてしばらくは、とくべつかわいいという感情もわかず、とにかく生んだからには、という責任感に突き動かされていたように思いますが、会話ができるようになってきた3歳くらいからはとにかくかわいいです。とはいえ、あと10年もしたらクソばばあとか言われるのではないかと覚悟はしていますが…。
自分にしても、自分が親に感じる気持ちと、息子に感じる気持ちはまったく異なるので、息子が私に感じる気持ちは自分の気持ちとはまったく異なるものになるであろうと思っています。今は、仕事に行こうとすると、行かないで、ずっと一緒にいて、とかわいいことを言ったりしますが、真に受けて仕事をやめてしまっては、きっと10年後には、なに子どもの言うこと真に受けて仕事やめてるんだ!行きたい学校に行くお金がない!となってしまうことであろう。
仕事の必要もあって、英語を勉強している自分としては、人が言葉を身につける過程にとても興味があって、息子が日本語を習得する過程を観察していたのですが、結局よくわかりませんでした。
今、通っているこども園に入園する前、週2回、未就園児クラスに通い始めたところ、ものの数日でぺらぺらしゃべるようになり、すっかり言語習得の過程を見逃してしまいました。未就園児クラスに通う前は、限られた単語だけで、文章はほとんどしゃべることができなかったのですが、同じような状態の子どもらが集まってなぜこのような結果になるのか、不思議でならない…。英語がカタコトな状態の大人が複数集まって一緒に過ごしても、流暢に話せるようにはならないと思う…。子どものチカラというやつですね。
取り留めなくなってしまいましたが、今日とにかく書きたかったのは、風間俊介さんの表現力がすごかった!ということでした。
2019年11月吉日