こんにちは、にわです。
我が家の小4の息子は、まあまあ世間のマイノリティに属している側面があると思うのですが、昭和の自分世代と変わらないバイアスが育まれていると感じることがたびたびあります。
先日、いつもの家庭学習の一環で、Khan Academy Kidsに取り組んでいたところ、下図の車いすの男の子が出てきた際に、
と息子が笑いながら言いました。
足が不自由なのになぜダンスに混ざってきたのだ、という意味での発言のようでした。
この子が車いすだからダンスは無理だろうっていう意味?
私の声と表情がおそらく若干厳しかったためか、困惑した様子の息子。
むしろKneesとToesは一番動かなくてよくて有利ではないか。
私も車いす経験はないので、どう接することが正解なのかはわかりませんが、何事も自分で決めたい、人に決められるのは嫌なので、自分が嫌なことは人にしない、というだけの方針で生きています。
息子には、私の言うことが正しい、という捉え方ではなく、そういう風に考える人もいる、ということが伝わればと思って話しているのですが、息子は「自分は間違えた」と感じてしまっているかもしれないという懸念もややあります。
本当は参加したくなかったのに、と思っている子にとっては、参加しなくてよい、と言ってもらえるのはありがたいことかもしれないし、参加したくてしているのに、どうして参加しているのだ?と言われたら、嫌な気持ちになるかもしれないし、結局、車いすかどうかというより、個々の性格や嗜好の問題なだけ…と思います。
かつて息子は「ピンクは女の色」と思って嫌っていた時期がありました。
久しぶりに当時記録しておいた『最近ピンクが好きになった小1息子の話』という投稿を読み返しました。当時はおそらくこども園の影響によるバイアスだったと思うのですが、車いすに対する息子の反応はどこからきたものなのだろうか。
私はメイクをしたことがなかったり、専業主夫世帯という形態を選択したり、自分自身があまりマジョリティではない嗜好や選択をしてきているので、「普通」に何が包含されるのか?いちいち疑問に思ってしまって息子の世界に対する反応もいちいち気にかかります。
私の職場は、unconcious bias に関する社員教育にまあまあ熱心なのですが、そこで挙げられる例を見ていると、だんだんバイアスとは何なのか?あらゆるバイアスが問題があるとは言えないのではないか?とむしろわからなくなってきます。
女だからxxxとか、男だからxxxとか、単なる偏見というだけではなく、結局、過去、その属性の人たちの多くがその偏見の元となる結果を残してきたことでバイアスが形成されているのだと考えると、感情や想像だけではなく、経験値や確率からくる見解で、ネガティビティバイアスだとは簡単に割り切ることができません。
2024年9月吉日