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社会人生活折り返し 前半を振り返る(職探しを始めてから)


こんにちは、にわです。
社会人生活折り返しとなり、これまでの社会人生活を振り返って、後半の社会人生活を考えたいと思います。前回の投稿が思ったよりも長くなってしまったので、3回に分けて投稿することにしました。 

1回目:職探しを始めるまで
2回目:職探しを始めてから(本投稿)
3回目:20年以上が経過して 

  

IT部門で働き始める前の私は、昼間は働きながら通信制の大学(教養学部)を卒業し、できることは以下のみ、という状態からのスタートでした。

  • ブラインドタッチ
  • Word/Excel/AccessなどのOfficeアプリケーションをユーザとして使用

  

ITで働き始めるきっかけ

1人就職活動開始

いわゆる新卒の「就活」タイミングはすっかり逃してしまったので、通信制大学時代と同じように、派遣登録をしたり、求人サイトや求人広告/雑誌などで仕事を探しました。

 

自立しなければならない年齢に達してしまった、というだけで、やりたいことがあるわけでもないため、以下の条件に絞って職探し。

  • 未経験可
  • 自活できるだけの手取りが得られる

 

就職超氷河期ということもあったのだと思いますが、正社員ではなかなか見つかりません。でも、この仕事で一生食べていく、という覚悟があったわけではないため、派遣でも契約でも、とにかく生活できるだけの給料を払ってくれて雇ってくれればよいと割り切って探したところ、希望に合いそうな会社を見つけました。これがたまたまITの会社でした。

 

面接で覚えていること

当時は「ソフトハウス」と呼ばれるスタートアップ企業がたくさん出始めた時期だったと思います。私が応募した会社はその種の会社だったようです。面接を担当した人も、今にして思えば人事の専門家ではなく、エンジニアだったように思います。

 

ITで技術力を身につけて食べていくのに何年くらいかかると思うか?と質問され、つたない人生経験を総動員して想像し、

 

10年くらいでしょうか

 

と回答したことろ「いい線ついてるね」と言われたことを覚えています。いくつかのやりとりののち、いくらほしいか?と聞かれ、父親の給与明細や実家の光熱費の明細を見て育っていた私は、光熱費が〇万円、家賃が〇万円、食費と雑費で〇万円、貯金も〇万円はしたいので、手取りで25万円はほしいです、と正直に言いました。

 

面接官の想像より高額を要求してしまったようで、うーんとしばし考えたのち、厚生年金は入りたいか?と続いて質問され、

 

手取りが減るから国民年金でいいです

 

と回答。ばかすぎる…。それほど長く続けるとも思っていなかったので、どちらでもいいかと思っていたのですが、結局この会社と5年くらい契約を更新し続けたので、もったいないことをしました。

 

しかしこの回答で面接担当者は月給30万円で雇うことを即決してくれました。これなら税金や社会保険料が引かれても手取りで25万円以上になるだろうということで。厚生年金を含めると、私が要求した給料は、人件費予算のぎりぎりだったのかもしれません。

 

昇給はなし、という条件だったのですが、結局5年ほどの間に、2回昇給していただきました。派遣先から昇給してあげてくれと言われたから、と説明を受けました。ありがたい。

 

IT派遣

未経験でも自活できるだけの給料がもらえる、という募集情報だけで飛びついた会社のため、会社のことも、自分が何をすることになるのかもよくわからないまま、指示された勤務地に出勤開始。

 

どうやらIT派遣を(も?)している会社だったようで、派遣先が決まるまで、研修の一環として自社のホームページをつくったりしながらIT知識を身につけ、派遣先が決まった人から研修は終了して派遣先で働く、というシステムのようでした。私と異なり、ITの素養がある方々は、もっと高度な内容の研修を割り当てられていたように記憶しています。

 

研修と言っても教えてくれる人がいるわけではなく、その場にいるメンバであれこれ調べながら作業を進めます。Web制作の知識がまったくない私は、htmlを自習しつつ、英語ページの英訳担当を言い渡されましたが、数日で派遣先が決まり、研修室とはお別れとなりました。

 

ITの素養がある人でもなかなか派遣先が決まらず研修室に何か月もいたり、派遣先が見つからないまま契約を終了される人もいたので、私は運がよかったのだと思います。この時点で、売りにできるほどの英語力はなかったにもかかわらず、派遣先は「英語ができれば尚可」の外資系企業だったため、ただ外国で暮らしてみたい、という憧れを実現しただけの数か月が、職探しの役に立ってくれたようでした。

 

IT部門のアドミ

大学卒業後の初めての仕事は、外資系コンピュータメーカーのIT部門の部門アドミでした。前任者が結婚で契約終了するということで枠が空いて採用された模様。部門の雑用と、システムのログを元に、週次や月次でレポートを作成することが最初の仕事。アドミ採用なので技術力はまったく期待されていません。前任者から数日間、引き継ぎを受けましたが、完全に結婚までの腰掛けで働いていました、という感じの人でした。

 

が、ある日、派遣先の上司であるおじいちゃん社員さんに「レポート作成はボタン押したらピって作れるようにしてほしいんだよなあ」と言われ、最初は冗談を言われているのかと思い、若い社員さんたちに確認してみたところ、「Excelでレポート作っているならVBAで実現できるよ」「マクロを記録してコードをみて、ネットで調べれば大体わかる」と教わり、本を買ったり、マクロの自動記録をしてコードを修正したり、少しずつ自動化。

 

前任者がひと月かけて手動でつくっていたいくつかのレポートは、数分で作成できるようになりました。すると、今度は社内向けのトレーニングサイト作成を担当するように指示を受け、今度は隣の席の中堅の社員さんが「〇〇とかWebサイト作成ソフトを使うと簡単にはできるけど、コードが汚くなってメンテナンスが難しくなるし、ほかの会社に転職した時にそのソフトが使えるとは限らないから、基本のhtmlを覚えたほうがいいと思う。」とアドバイスをくれました。

 

アドバイスに従い、htmlを勉強。上司の要求に対応するため、JavaScriptを使ったり、最終的にはASPでDBと接続するページを作成。ほかにもネットワーク担当エンジニアの社員さんの手伝いで、DNSの登録をしたり、ヘルプデスクの人出が足りないときには電話に出たり、いろいろさせてもらいました。

 

何のキャリア・ビジョンもないため、命じられるまま雑多な対応をしていたものの、最初の壁は、ヘルプデスクの代理対応でした。コンピュータメーカーなので、ヘルプデスクに電話をかけてくるユーザには客先に常駐しているエンジニアの方々もたくさんいて、不明な技術用語を使われたり、障害や対応の説明に納得されないなど、知識がないとやっていけない…と思い知らされました。

 

そんなときにまた社員さんの一人が「ヘルプデスクのSさんが初級システムアドミニストレータ試験を受けるんだって。にわさんもだめもとで受けてみたら。勉強の過程で基本的な用語とか覚えられるのでは。」とアドバイスをくれました。

 

さっそく帰りに書店に寄って、本を購入。次の試験まで何か月かあったので、勉強してみることに。完全に理解できたわけではなかったものの、1回目の試験で無事合格。アドバイスをくれた社員さんに報告すると、驚き、喜んでくれました。

 

この会社では、IT運用管理部門は暇なほどよい、暇な時間に新しいテクノロジーの勉強をするのだ、という社員さんばかりで、空いている時間にシニアのエンジニア社員さんが若手の社員や派遣や契約できているスタッフに、ボランティアセミナーと称した技術指導をしてくれたり、メーカーなので、ハードウェアのパーツは潤沢にあり、「ラボ」とよばれるオフィスの一角で、ハードウェアのセミナーなども実機で体験させてくれました。

 

この職場は私の社会人人生史上、一番よい職場でした。会社のロゴが入ったノベルティグッズが取り合いになるような、社員に愛されている会社で、社員のみなさんから、会社に貢献しようという思いが伝わってくる職場でした。他者に買収されて、社員さんの勤務地や配属がばらばらになるまで、結局5年ちょっと居座ってしまいました。

 

IT部門の技術職として働き始める

居心地がよすぎて、チームが解体されるまで、派遣社員として働いていたものの、社員のみなさんは各自の技術分野に精通していて自信もすごくもっており、それに引きかえ、自分は、初歩的な何かができるようになってもまたすぐ次のわからないことに遭遇し、永遠にわからないことばかり…という不安から、この仕事で一生食べていく、という気持ちにはまったくなれずにいました。

 

しかし、転職活動をしても、IT以外の仕事にはまったく引っかからず、結局、覚悟もないままITでの仕事をその後も続けることに。そして採用してくれるのは外資系企業ばかりでした。同じ外資のIT部門といっても、業種によって、組織におけるヒエラルキーや社風がまったく異なり、試用期間中にやめた会社もありました。

 

いくつかの職場を経て、次に長く勤めたのは、完全に英語が不要な国内の損害保険会社のIT部門でした。ここで初めての正社員!一夜漬けでSPI勉強した甲斐があり、1問しか間違えていなかったと面接のときに言われました。奇跡です。配属先は、オープン系システムの運用管理チームで、初めてLinux系OSを扱うことに。ここでも先輩社員のみなさんに恵まれ、viも知らない私に、OJTで指導してくれたり、休憩時間や業後にあれこれ教えてくれました。

 

このあと転職することになる小売業界のIT部門では、誰も知らなかった、ITILで求められるようなことが、きっちり実践されている職場でした。IT部門にきちんと予算がかけられており、ITベンダのエンジニアが常駐していて、重大な障害時には即時対応される仕組みが整備されていました。IT運用管理部門のあるべき姿をここで学んだように思います。

 

とくによくしていただいた協力会社のシニアのエンジニアの方は、知らないことはないのではないかというくらいすごい方でした。ほかにも常駐しているITベンダーのエンジニアさんもプロフェッショナルな方ばかりで、自分とのあまりの違いに、この仕事でこの先もやっていくことは自分には無理なのでは…というネガティブな気持ちと、一緒に働くエンジニアの方々がすばらしい一方で、自分が属する会社の社風や社販等の要求に抵抗を感じ、数年後、IT翻訳部門がある会社へ転職。この時には、年齢も30歳を超えており、もう技術の仕事には戻るまい、と、最後の転職の覚悟でした。

 

IT翻訳

何で身を立てて行けばよいのかわからず、とりあえず採用された会社で日々与えられた仕事をこなしつつ、図書館司書の資格を取ったり、簿記(3級)の資格を取ってみたり、字幕翻訳の学校に通ったり、細々と英語の勉強と、自分の興味と生涯の仕事について模索を続けているなかで、IT翻訳部門がある会社の翻訳トライアルに合格し、レビュアーとして入社を許可されました。

 

自分は黙々と仕事をするのが向いていると思っていたのですが、前職で、夜間早朝勤務もあり、すっかり体内時計がおかしくなっていたからか、中学生の頃から部活の朝練で早起きはできるものの授業中居眠りしてしまうような体質だったからか、前日しっかり睡眠をとろうが、とにかく眠たくて眠たくて、全然向いていないということが発覚…。また職場の慣習のようなものにも、なじむことができませんでした。

 

納期がひっ迫すると、休日出勤のボランティアが募集され、当時は独身で予定も大してなかったため、積極的に休日出勤の要請には応えていましたが、荒天で電車が遅延して出社が昼頃になっても、1日のノルマの文字数は調整されず、リモート勤務も許可されず、1年経つ頃には、休日出勤はいつも同じメンバであることに疑問を感じ、たった1日有給休暇を申請してもなかなか許可されない一方で、古くからいる社員は1週間の休暇をあっさり許可されたり、毎回大量の翻訳メモ(わからなかったことや翻訳に自信がない部分が書かれたメモ。レビュアーが最終的に調べたり原文を書いた人に問い合わせて解決する。)をつけてくるフリーの翻訳者について報告をあげてもまた同じ翻訳者に発注されることにイライラしてしまったりで、IT時代の稼ぎに戻るまでがんばれそうもないと判断し、1年半で退職。

 

IT部門の技術職に出戻り

もう二度と戻るまいと思っていたIT技術職に戻ることになろうとは。

 

この時すでに32歳。これまでの転職活動経験から、社内IT部門であれば、求められる技術もある程度限定され、社歴がそのまま業務経験に活かせ、文系卒で現場で身につけたものしかない自分でもなんとかやっているのでは…と考え、社内IT部門に絞って活動。

  

このとき採用してくれたのが今の職場です。

次回の投稿へ:20年以上が経過して

  

2022年10月吉日

 

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